珍らしく自分から話しかけた

「なあ、豹一」珍らしく自分から話しかけた。「あのな、……」 以下の言葉はここに写すまでもあるまい。豹一の答は頗る簡単だった。「よろしい。欲しいだけ取って下さい。なんなら月末に請求書を出してもらいましょうか」さすがに声は顫えていた。が、請求書という巧い言葉を思いついたので、豹一の興奮はいくらか静まった。 しかし安二郎は請求書ときいて、飛び上らんばかりに喜んでいた。こんなに簡単に、いざこざなしに話がつくと思っていなかったから、余り話がうますぎると、ちょっぴり不安に思ったぐらいだった。「用談」が済むと、豹一はいつものように畳新聞社へ出勤する顔で、さっさと家を出た。夕方帰って来た豹一は、しかし昨日のままの失業者に過ぎなかった。

[#6字下げ]三[#「三」は小見出し]

 凍てついた道を寒風が吹き渡っていた。豹一は寒そうに身を縮めたしょんぼりした恰好で、街から街へ就職口を探して空しく、歩きまわっていた。 昭和十六年の常識からはちょっと考えられぬところだが、当時は、大学出の青年が生活に困って紙屑屋を開業したと、新聞に写真入りの、いわば失業時代だった。たとえば、ある日、「社会部見習記者一名募集」、「応募者ハ本日午前九時履歴書ヲ携帯シテ本社受付マデ。鉛筆持参ノコト東洋新報」 そんな三行広告が新聞に出ている朝、豹一が定刻より一時間早く北浜三丁目の東洋新報の赤い煉瓦づくりのビルへ行ってみると、もうまるで何ごとか異変の起ったような人の群が一町も列を成して続いていた。一名採用するというのに、この失業者の群はなんということかと、豹一はそんな世相をひとごとならず深刻に考えるまえに、そうした列に加わることに気恥しく屈辱めくものを感じた。よっぽど帰ろうかと思ったが、しかし、ここを逃しては、当分就職口はあるまい。どさくさまぎれの気持で、しょんぼり列のうしろに並んだ。 無意味に待たされて、その列は一時間ほどじっと動かなかった。寒さと不安に堪えかねて、ひとびとはしきりに足踏みしていた。九時過ぎにやっと動きだしたが、摺足で歩くほど、のろい進み方だった。前の方から伝って来た「情報」によると、先ず一人一人履歴書を調べられているらしく、それを通過したものだけが直ぐあとで筆記試験を受けることになっているらしかった。中学校卒業程度以下の学歴の者は文句なしにはねられるらしいと、いいふらす者もあった。(すると中学校も案外出て置くべきだな)あまり感心の出来ない調子で、豹一は呟いた。 筆記試験へ残った者は百人ばかりあった。豹一もその一人だった。三階の講堂へ詰めこまれると、豹一はわざと出口に近いいちばん後列の席に坐った。嫌気がさした時、試験の最中にすぐ飛び出せるための用意で、なかなか手廻しが良かった。席に就いてから半時間待たされた。豹一は苛苛として来た。

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